泊地区神社に関する年表 |
西暦 |
年号 |
記事 |
802 |
延歴21 |
信濃の国出身の高嶋賢吾が、海上安全豊作祈願のために、泊に諏訪神社を建立、諏訪大明神を勧請、鎮祭する。ご祭神は建御名方神である |
1010 |
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源氏物語編纂 |
1583 |
天正11 |
東海山善根院大乗寺開山(盛岡大泉寺の末寺) |
1585 |
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豊臣秀吉大阪城築城完成 |
1657 |
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徳川光圀大日本史編纂着手・完成1906 |
1664 |
寛文4 |
伊勢の国(三重県津市)出身の回船問屋だった佐藤荘兵衛憲次が、俗界より離れ、泊に貴寶山を開基、名を広貞と改める。 |
同年 |
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4月七戸、野辺地、田名部に代官所が置かれる。12月南部藩重信、9月に死去すれども嫡子無く、七戸隼人 重信が、盛岡八万石、弟直房が、八戸二万石を賜り、南部藩は盛岡、八戸に二分する。 |
1702 |
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赤穂浪士吉良を打つ |
1703 |
元禄16 |
越前府中の僧正空念が、年老いた広貞上人と会い、貴宝山由来記を書く |
1706 |
宝永3 |
広貞上人、盛岡永福寺堯智謀に貴寶山譲状を渡す |
1708 |
宝永5 |
4月20日広貞上人没 |
1719 |
享保4 |
幕府が日本国中高山 御詮議を各藩に命じた報告書に南部藩泊村貴寶山が記されてある。 |
1761 |
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泊村、家62軒、人340人、馬43頭、牛140頭 |
1757 |
宝暦7 |
平沼熊野神社勧請 |
1780 |
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泊村、家57軒、馬56頭 |
1790 |
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この年から10年間の干鮑出荷量は年平均2240斤で北グン海辺の村々で最高。次は佐井村、次は尻屋村 |
1793 |
寛政5 |
国学者菅江真澄、御所大神宮由緒を書き残す。その様、白糠より牛に乗り泊村に入り、秋忠に宿泊する |
1805 |
文化2 |
大乗寺と貴寶山との争い起こる。野辺地忠蔵への返答文書に貴寶山、屋萩神社の御祭神調の末文に「泊村に鎮守大名神・稲荷大名神・弁財天・御所宮・十一面観音」とある。 |
1849 |
嘉永2 |
諏訪神社に本年号のついた神祇伯資敬王謹書の額あり |
1872 |
明治5 |
太陽暦採用される |
1873 |
明治6 |
諏訪神社郷社に列せられる。 |
1912 |
大正元年 |
諏訪神社拝殿が現在の場所に(岩の上からお遷しする)に建立される |
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昭和24 |
袖の戸勢至弁財天神社社殿新築。御神体鎮祭。 |
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昭和36年 |
貴寶山神社殿新築。泊町民と泊出身八戸在住者の寄付による。これに併せて、御神体を種市家から社殿にて祀ることとなる。諏訪神社宮司鈴木岩美を承認としたてて、神社世話人総代と種市忠七との間で誓約書が交わされる。種市忠七謹書の「貴寶山神社」の額が寄付される。 |
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昭和48 |
袖の戸勢至弁財天神社社殿修繕。鳥居新築。 |
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昭和48 |
稲荷神社社殿新築。 |
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島勢至弁財天神社、漁港整備事業にともない、中山崎へ、お遷しする。島は削り壊されるも、その岩の一部を基礎部分に埋設する。 |
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昭和52 |
諏訪神社社殿新築。中村留吉部落総代の発言のおかげで予算以上の寄付が集められたことにより、神輿を新調する。旧神輿は白糠の神社へ無償贈与。旧本殿は倉庫、旧拝殿は社務所として現在使用されている。 |
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平成元 |
貴寶山神社奥宮・里宮各鳥居新築 |
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平成7 |
貴寶山神社遥拝殿(通称拝殿)新築 |
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平成9 |
五所大神宮社殿新築。管理責任者である泊船頭会が主体となり実行委員会を組織する。 |
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平成13 |
袖の戸勢至弁財天神社社殿修繕。内装・外構工事。工事期間中、御神体は貴寶山神社社殿でお祀りする。 |
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平成15 |
島勢至弁才天神社現在の場所へお遷し(お戻し)する。 |