六ヶ所村泊地区
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■ 六ヶ所村
■ 遠田秋月堂
貴寶山神社縁起

私、僧正光空念も14年間全国津々浦々残すところの無いほどに諸国巡歴をしてきたが、この奥州南部七戸領の泊村ほど霊験あらたかなる所もないであろう。
ある夜、この泊村にて宿泊していたところ、深夜に数万といえるほどの光(点燈)を見たので、里人に聞いてみたところ「この山の奥に、広貞という和尚様が峰の谷に尊い神仏を見つけ出し、住み着いていて毎日修行をしてはその神仏をお守りしている。」とのことである。そしてそれ以来夜に光る天燈は絶えることが無いというその広貞という和尚、屋萩震殿という草葺の庵に住んでいるというので村の役人に案内してもらう事にした。
その役人はとは、町屋庄左衛門、高田善兵衛という偉い方と水戸屋嘉兵衛、玉田与兵衛なる4名にて屋萩山に入り、広貞和尚に対面する事が出来た。
先ずは、この山の開基はいつのことかと尋ねてみた。

私は三重県姉津(今の津市・県庁所在地)の出身で、元の名は佐藤宗兵衛というものです。ここに来たのは、32歳寛文4年のことでした。商人として(回船問屋らしい)この里の沖を航行中、深夜にこの山に無数の天燈を見つけました。その不思議な光に誘われるがごとく、私はこの泊に船を留め、上陸して大乗寺にて髪の毛を落とし、出家しました。そうしてこの山に入り貴宝山の神仏を見出す事になったのです。
私が37歳の寛文9年11月14日の夜に不思議な夢を見ました。夢の中で神殿があり、その前に茅が刈って積んでありました。そこを覗いてみると、五色の現われては瞬く間にきえました。すると14か15歳くらいの子供が現われ、その子供は私に「お前は寂しくないか」と尋ねてきました。私は「ここは私の家なので寂しくはありません」と答えました。すると又子供が尋ねるには「和尚の家はどこか」と言います。私は「この川を越えた三ツ森という処が私の住まいです」と答えたところで目が覚めました。
今度はあくる年の10月にまた不思議な夢を見ました。
屋萩の川端にお爺さんが二人と、今度も14か15歳くらいの男とも女とも判らない子供が現われたのです。すると「ここに尊い仏塔があるので、そなたはこれを建てなさい」と言われると忽ち夢から覚めました。
不思議に思い、人夫6人を相連れ立って山に入ってみると、どこからともなく光明が輝き、天燈のようなものや星のごとくに輝くものがあるが、その出所がはっきりと判らない。そこで谷谷に9つの小屋をかけ、昼と無く夜と無く見張っていたのですが、そうしているうちに時は4年を経過しました。
ある日、山の奥より天地が振動してきたのです。その震源を求めて闇夜を分け入っていくと、その中に3つの塚を発見する事ができました。「ああ、これこそ夢に見たものだ」と思い、その近くまで更に分け入っていくと、夜半にその塚の中から「私の住んでいるところはここであるぞ」との声、更に「6月1日に御幣をたてなさい。」との御託宣(お告げ)が3度ありました。ああ有難いと思い礼拝をして、そこの塚を掘ること2年、掘った穴からまた天燈が輝いてきたのですが、それはとても眩しくてあふれんばかりの光でした。
不思議とも有難いとも思いましたが、何分にも私一人の力ではどうしようもできず、泊の里人を頼んで手伝ってもらって掘り起こすと中から11体もの菩薩様が現われたでないですか。
1、阿弥陀 2、釈迦 3、薬師 4、観音
5、如意輪 6、天戒弁 7、妙見 8、八幡
9、岩鷹 10、権現 11、山神
これら全て何れも夢の中のものに違いありません、そして夜になると昼のように光を放ちました。そこでここにささやかながらも庵を造り、人々に拝む事ができるようにしましたのですが、今日に至るまで昼と無く夜と無く天燈が輝き、その数はいくつあったのか分かりません。
御震殿を建てたのはこれが最初でした。ここより手前2丁の所にその丈数尺に至る大岩があります。これもまた夢の中にて「これは梵天石だぞ」とのお告げを受けたのです。その後貞享元年6月16日、夢の中に老人が現われ「その梵天石の下に日本一の名湯がある、掘り起こして、湯治場を造りなさい」とのお告げがありました。人夫を大勢引き連れて掘ってみると、夢に違わず本当に温泉が湧き出してきたのです、更に深さ10尺の所から弥陀薬師仏が現われました。
 さては我が故郷の大神宮様(伊勢の神宮)が下っていらっしゃったのだと思い、18丁川上に大神宮様のお社を建立いたしました。それより礼拝すること今日に至るまで怠ったことはありません。  その後、ある夜半に「阿呼」との声がありこれは大神宮様の声だと感涙しておりましたらさらに霊夢があり「この2羽の鳶についていき、奥の院を建立しなさい」とのまたしても有難い夢がありました。お告げのままにさらに2丁ほど奥へ進むとお告げの通り大きな岩が見えてきました。その岩には確かに「阿呼」の文字が記されてありました。そこで夜を通して拝んでいると、遥かかなたより読教の声と鐘の音が聞こえてくるではないですか、すると西の方に紫雲が見え阿弥陀3尊、東の方に薬師如来が現われたのです。(仏像ではなく)本物のお姿を拝むことが出来、感涙肝に銘じました。涙が頬を伝い、心も体も消えて漂うかのようです。
するとどこからともなく白い鳶が2羽現われたではないですか、これこそ夢のお告げの鳥だと思い後を追って行こうとしましたが、険しい山のうえ、大木や大岩が幾重にも重なり、谷深きこと数千丈、西の方高き様は雲に至るほどです、体力も限界で気力も衰えていると、空から「疲れているのであれば、両親の事を思い出しなさい」との声がしました。その通りにしてみると不思議と心も体も晴れ晴れとしてきました、このようにして鳶の後を追って行く事ができたのです。
やがて大岩にたどりつくと、何とも言えない神聖で霊験あらたかな場所ではないですか、更に光のような滝が流れており、その音が森にこだまして、美しく何ともいえない有難い森です。私の心もついには「空」の悟りの境地に至りました。
そうしてそこで拝むこと100日、その後麓に下り、このことを御代官である野辺地庄左衛門様に報告し「御山開基願」を出し、この山の神仏を「貴宝山」とする許しを得ました。
七戸の瑞龍寺の藤村源兵衛殿がお参りに訪れ、金の御幣と錦の御幣各3本を奉られました。
1つは、今上陛下の御長寿の為
1つは、国の武運長久の為
1つは、国主(南部藩主)の子孫繁栄と万民の豊楽の為
との事でした。
そうして群衆祭礼をしおえて麓に戻ってからも一晩お籠りを致しました。その二晩後の夜半霊夢に僧3人現われ、是より笹がかっこう過ぎてか神の倉ありと教えられて、夢がさめました。明くる日、木原山々峰を押し分けて30丁余り進んだ先に山八葉のようにあり蓮の花のようであった、南の御殿、北の御殿あり、その中に沢山の諸仏が出現して竜燈天燈が夜毎出現する。
そこでお籠りすると、霊夢にてここから南に黄色い仏ありと告げられ、お告げのままに3丁分け登ると眼下に池があり、その中に滝があって、中を見ると観世音が現われて、これを木滝の観音と崇め奉りました。
又霊夢にて白糠前山に阿弥陀薬師観音があらわれるとお告げがあり、目が覚めて下って行くと確かに御出現になられました。これを前山の三尊といいます。又霊夢で山野を超えて月山を越しなさいと告げられ、夢覚めて山の峰に月山大権現を見出しお社を建立しました。
そのお社に通る道に霊夢に白髪の翁が現われ、天燈が下っている。不思議と思い、行って見るとその月山から5丁下った所に霊岩がありました。これが三宝荒神です。
又霊夢にてそこより四方に御幣が現われるのが見えました。そうして向山に日の入りのような燈明がみえました。これが燈明仏です。
又霊夢にて翁が現われ、我が住家を切り荒らし住む所なりと告げ、すると数尺丈の仏三尊と翁三人が現われ、どこから来たのかと聞かれたので答えようとすると夢から覚めた。不思議と思いそこから数丁分け行ってみると霊岩がある。その岩の穴の入口に仁王様のような仏様の姿が立ち現われました。そこから12間奥に行き二丈ばかり縄を伝って下りていくと烏帽子をかぶった老翁が奥を拝んでいる姿があり、その7丁奥に胎蔵界、金剛界が見えたのでそこでもお籠りをしました。又霊夢には我は両部の大日如来なり、特別ではない限り人は入ってはならん、特に女性は禁ずるなりとお告げあり。
又夜毎念仏を唱える声が聞こえてきて、霊夢にて両山の内に仏舎利ありとのお告げがあり、行ってみると確かに仏舎利がありました。そこから七丁あまり奥の滝の上に弁戒天が鎮座して、我はここぞと霊夢を見せられました。
又霊夢にて麓より3里あまり奥に小幡の観音なりとのお告げあり、更にここから2里余りのところに笹小屋の観音ありとのお告げがあり、行ってみると確かにその通りであった。
そしてそこから18丁余りのところに本賊沢熊野大権現が鎮座している、これも霊夢によって開いたものです。
そこより14、5丁東には黒滝の観音、これも霊夢によって開きました。
さらにそこから50丁余り東には筑紫森という山がありそこには筑紫森大権現、これも霊夢によって開基しました。
そこから南老部川の奥に観音菩薩と薬師菩薩ありとの霊夢があり、分け行ってみると確かに御鎮座されていました。
そこから縦に10丁余り隔てたところにホツノ観音菩薩が現われる事やや是また自然の事なり。
以上山々谷々を霊夢を頂いて分け入り初めてより、以来35年長々しい話ではありますが、私覚えているところはあらまし以上の通りです。
入山以来35年間、霊夢を頂いた事を有難く、また肝に銘じてきたことを、涙を流しながらも、舌は流水の如く流暢に話して下さった。

かくして私も広貞上人のお話の大儀を肝に銘じて屋萩山を悉く回り、二十八日には貴宝山に登山し、山案内に町屋氏、高田氏、水戸屋嘉兵衛お誘い合わせて別火にてお籠りをして、行水にて身を清め、翌日奥の院へ参拝をした。その日は広貞上人のお弟子(広貞師法弟国子陽)が先立ちをなされて、「阿呼」の字の石に登るとその様言葉に表すことが出来ないものであった。
それより奥の院に登る所で、鳥が2羽現われました、これこそ広貞上人が夢のまにまに後を追った鳥のお話の通りであった。
またそこを下った滝で手水をすると、その流れの一つは冷水、もう一つは温水であった、不思議な事だと感じていると、その滝から冷たい風が吹き付けていた、そよ風ではなく強風である。お弟子さんが言うには、「これは脇からふいてきた風ではなく滝つぼから神仏が息を吹きかけたのだ」とおっしゃった。げんに木々の梢は風に揺れることなくしんとしている。そこで再び手水をすると、また息を吹きかけられた。
そうして奥も院で三度礼拝をすると、御注連縄梵天木の岩屋より気高いお声にて「善しや、善しや」と三度聞こえてきた。目をみはり、驚き、信心を肝に銘じましたお経を唱えました。
その後そこから少し登って周囲を見渡すと、沢山の神仏が現われました、その他には栗加羅不動師子の姿など無量のお姿でした。いずれも目を驚かし、心も絶え絶えなるばかりでした。
このようにして月山の峠、嶺、をめぐってお参りしましたが、広貞上人のお話に違い無く、白い鳶の案内のまにまにお参りを済ませました。
誠に不思議な出来事なので、広貞上人のお話を私が覚えている限りを記しました。
この29日にお籠りしていると、数万の竜燈海中より山に登り、数万の天燈下る事星の如くで、誠に稀有の至りでした。
以上の事を言葉の稚拙に関わらず、広貞上人のお言葉の通りに書き記し、後に残すものであります。
元禄16年未10月2日
  越前丹生の郡府中の住人、僧正光空念謹みて書す
  「南無尊と宝山これに雲晴れて真如の月は顕われにける」

この書は七戸の住人野辺地何某のお持ちのもので、密かに借りて書き写したものより数年を経て、虫食いがひどく、書き写すのも困難なため、話しの内容が変わってしまう恐れを承知しつつも、古老の言い伝えを元にして校正をしました。然しそれは文章を飾るものではなく、只管貴宝山の開基を知ってもらおうとするものであります。
後の世の人々がこれを読んで、拙い文章を批判したり、笑ったりするのではなく、貴宝山、屋萩山の両山の神仏の守護を只管に祈っていただきたい、それが私がこの書を書き残す志だと理解してほしい。
 天明7丁未盂春
 天保5申牛如月(2月)初
  初典日 旧6月18日